10/26 21:26 UP!
【超長文】私の人生、セラピストになるまで
どうして私が、女風のセラピストをしているのか。今日は、その理由につながる自分の過去について書いてみようと思います。
とても長い文章となりますが、ぜひお付き合いいただければ幸いです。
※家庭環境など、少し重めの内容を含みます。そういった話が苦手な方は、無理せずブラウザバックしていただければと思います。
=================
わたしの家族構成は、父、母、兄、そして大好きなワンちゃんがいました。ワンちゃんは数年前に亡くなりました。
今では、親と、家族とは、絶縁している。
何年も連絡をとっていない。私が今長崎にいるなんて、知りもしないだろう。
元々家庭内の仲は良くなかった。小さい頃はまだなんとかなっていた。でも、大きくなるにつれ、その溝はどんどんと大きくなっていった。
DVなど、手を出されたことはない。そこは、幸せだったと思う。
父親と、まともに話をしたことがない。父は祖父の借金を背負わされ、なんとか働き詰めでいた。そんな中で育ててくれた恩はある。
でも、父親の性格とか、どんな人なのかはほぼ知らない。帰ってきては酒を飲み、そのまま酔い潰れて寝ていたから。みんなの邪魔をしないように、さっさと寝ようとしてくれていたことは知っている。
わたしの性格や、成長するにつれどう変わっていったのか、ほとんど知らないだろう。
母親のことは、小さい頃は素敵な母親だと思っていた。自分に寄り添ってくれていると感じていた。こうしなさい、ああしなさいと、教育をしっかりしてくれていたと思っていた。
でも大きくなるにつれ、こうでなければならない、こうじゃないなんてあり得ない。私が母親の思う道を逸れるたび、そんなことばかり言われていたと思う。
昔いじめられていたとき、抱きしめて励ましてくれました。でも、私の気持ちを気遣うような言葉は不思議となかった。きっと子供ながらになにか違和感があったから、今でも覚えてるのだろう。
母親の言う高校ではなく、もう少し偏差値の低い高校に決めた時、あんなバカなところに行ってどうするんだ。あんなところに行ってなんになると言われた。
見たことないような形相で、否定された。
その時、この人は私ではなく、息子という形を見ているのだと思った。
家の中で1番に覚えているのは、兄の大学受験の時だった。リビングで勉強する兄、付きっきりで教える父、見守る母親。
私がリビングにいるだけで、勉強の邪魔になると言われていた。その時は受け入れていた。自室に逃げるようにこもっていた。家の中の、音がなくなったような感覚だった。
あの時、自分はなぜ存在しているのか疑問だった。存在しているだけで邪魔なのかと。空虚な時間だけが流れていた。
そこから自分の殻にこもるようになり、あまり人と話せなくなっていた。作り笑いや取り繕うのはうまかったから、話しているふりはできていた。でも、自分の心の内を話すことなんて、できなかった。
そんな中でも、勉強しろと口酸っぱく言われた。やる気なんて、起きるような状況ではなかった。まあ、言い訳ではあるか。
元々頭はいい方だった。勉強しなくとも、そこそこの点数は取れていた。
母親から、国立大学に行けと、ずっと言われていた。そこに自分の意思はなく、決められたことのように。
安定して暮らせるようにしてあげたいと、そういう思いから言っていたことは理解していた。でも、そこに本人の意志が入っていないのだから、意味がないと当時から思っていた。
結局まともに机に向かったことなんてないけれど、国立の大学に受かった。家を出たくて県外の大学を選んだ。ずる賢さだけは育っていたから、学費が安くて、偏差値もそれほど高くない、なんとか行けそうな大学を見つけていた。
とにかく家から出たかった。大学で一人暮らしを始めた。
ここまでいいことを書いていないが、大切な温かな思い出がある。小4で飼い始めた、黒のトイプードルのワンちゃんのことだ。
とても優しい、賢い子だった。まともに繋がりのない家族が、唯一繋がるのが、このワンちゃんのことだけだった。
帰ればいつも、尻尾をぶんぶんと振り迎えてくれた。賢くて、朝時間になれば起こしに来て、寝ている私の顔をベロベロ舐めてくれた。
家族で喧嘩した時、必死に止めようと、不安そうな顔で、それでもそれぞれに駆け寄ってきてくれた。
私が泣いているとき、一緒に泣いているかのように、そばにいて慰めてくれた。心からの愛を感じたのは、ワンちゃんだけだった。
家庭が崩壊していなかったのは、このワンちゃんがいてくれたからこそだった。いなかったら、崩壊していただろうと、ずっと思っていた。
大学に行くため、家を出る時、このワンちゃんと離れることだけは、本当に寂しかった。
兄の話はまったくしていないけど、まあそういうことだ。一緒に遊んでいたこともあったけれど、理不尽に怒ったり、家の主のように振る舞ったりする兄のことが、どうしても好きになれなかった。
大学時代、言われるがまま、長期休みのたびに帰省してはいた。そうするものだと、母親が引いたレールに乗ったままのような、そんな感覚だった。
一応迎えてくれていた気はした。でも、今思えば他人のような、そんな距離感だった。
ワンちゃんだけは、心から迎えてくれた。本当に嬉しかった。
そのまま時は流れて、大学を卒業するころ、進路を決めることになった。
地元に帰って就職するのか、大学の近くに就職するのか、都会に出てみるのか。
その時には、大好きなワンちゃんは、もうおじいちゃんだった。
家には帰りたくはない、近づきたくもない。でも、ワンちゃんの最後の瞬間にはそばにいたかった。
だから、地元に帰る選択をした。
老人ホームに入り、空き家になっていた祖母の家があったので、そこに住まわせてもらっていた。
地元に帰ったにも関わらず、大学時代よりも実家に帰ることはなく、そのまま働いていた。
特に夢もやりたいこともなかった。ただなんとなく、田舎の企業で過ごしていた。
ワンちゃんは元々病気で、長くはもたないといわれていた。
1度退職し、別の企業で働いていたとき、ワンちゃんの体調がかなり悪くなっていると母親から連絡があった。
次の休みに、会いに行くことにした。
帰った時、ゆっくりではあるが、いつものように玄関まで迎えに来てくれた。
どうやらその頃既に寝たきりだったらしく、歩いて玄関まで行ったことに、母親は驚いていた。
いつものような笑顔でそばにいてくれた。おやつもあげた。美味しそうに食べていた。
後から聞いた話だが、その頃まともにご飯も食べられていなかったらしい。
その3日後、ワンちゃんは家で亡くなった。
そのまま葬儀を行なった。涙が出るのと、何も考えられなくなることを繰り返した。
あとから、最後に元気な姿を見れてよかったと思った。そしてそれは、ワンちゃんが必死で、かっこつけて、強がって、自分に元気な姿を見せてくれていたのだと思った。
尊敬しかなかった。本当にかっこいい。忘れることなんてできやしない。
葬式で久しぶりに家族が集まった。悲しみでまともに話すことなんて出来なかった。
悲しみがなくとも、別に話しなんかしなかったけれど。たぶん。
そこから疎遠は続き、とあるきっかけで、母親と死ぬほど喧嘩した。馬鹿みたいに怒鳴りあった。
そこで初めて、今までの人生を振り返り、自分が感じてきたことを、見たことないくらいの長文で送った。
送った後、後悔しながら、なんと言われるのだろうと思った。自分の心の中の、積もったものを初めて開示したのだから。
謝ってもらえるのか、寄り添ってくれるのかな。そんな風に期待した自分が、馬鹿だった、自分勝手だったなと後悔することになった。
謝罪や寄り添いの言葉なんて、一つもなかった。むしろこっちがと、たくさんの怒りの言葉が添えられていた。
もう、止まれなかった。
ワンちゃんがいなかったら、家庭は崩壊する。そう思っていたことが現実になった。
この人たちと関わることはできないと思った。だから、縁を切ると連絡し、最後に挨拶にいった。
父親からは大学に行かせた費用を返せと、そう言われていた。
母親からは、恨みつらみの続きだった。この人は最後までこれなんだなって。もはやなんの感情もなかった。
その言葉を聞いて、父親が初めて仲裁しようとしてくれてはいた。まあ、今更ではあったが。少しだけ印象に残っている。
自分の部屋から必要なものをまとめて、出ていくことにした。
父親には、自分の口座にあった貯金を全額渡して、飛び出すように出て行った。
歩いて駅に向かう中、母親が車で追いかけてきた。最後だから、送らせてくれと。
何度も断ったが、いつまでも付いてくるので、諦めて送ってもらうことにした。
そこから、よくわからない感情だった。気づいたら、親不孝者でごめんなさいと、生まれてきてすいませんでしたと、謝っていた。
母親からは、そんなことはない。後悔なんてないよと。そして、嫌なことがあったなら言ってくれたならよかったのに、言ってくれなきゃわかんないよと、泣きながら謝られた。
もう戻れないけれど、母親もきっと、とんでもなく不器用な、1人の人間だったのだと、そこで知った。
そこから、このままなにもせず生きるよりは、その瞬間、楽しいと思えることをして生きようと、そう決めた。
安定して暮らすのだと、母親からずっと言われてきたことを捨てて、いつ死んでもいいから、楽しいと思えるように生きようと。
そして、好きとか嫌いとかもなかった、無関心だった自分と向き合いはじめた。
そこで、人生で1番長く付き合うのは、家族でも他の人でもなく、自分自身なのだと気づいた。そんな自分に無関心で、むしろ嫌いよりだったことが、もったいないなって、そう思った。そこから少しずつ、自分を認めてあげようと思った。
絶対に人生で1番関わることになる自分を、好きになろうと思った。殻にこもっていた自分を、少しずつ出せるようにしようと、そう思った。
そこから貯金を全部置いてきたのに、無謀にも都内に転職し引っ越した。細かくは言えませんが、楽しいと思える仕事を始めた。
でも、貯金も無しに引っ越してきたので、借金をして無理やり生活していた。
お金もなく、やりたいことをやるために、何か別の仕事を始めようと探し始めた。
最初はホストをしようと、体験入店に行った。すぐにヘルプについた。何組かついた後、口だけはうまかったから、店長からやっていけるよと言われ入店した。
初めての出勤日、裏方の手伝いをしていると、同僚のホストたちが集まってきた。そこで、信じられないぐらい汚い言葉で、自分にお金を使ってくれているはずの女の子たちのことを話していた。人間の言葉とは思えなかった。
吐き気が止まらなかった。その日で、ホストを続けることは無理だと悟った。
その後、調べていく中で女風の存在を知った。
女風であれば、お客さんと向き合うのは自分1人。あの汚い言葉を聞く必要はない。
自分が精一杯誠実に対応すればいいのだと。
だから、それなら働けると思い、女風を始めることにしました。
実はこんな経緯で、女風を始めました。
お金がなくて、ホストでは無理で、自分1人で向き合える仕事として、適していると思ったから。そして心の中のどこかで、人と関わりたいと、そう思っていたからこそ、選んだのだと思う。
女風を始めて、最初は驚くほどお客さんがつかなかった。大多数のセラピストも、多分同じような感じだと思う。
今でも苦労している部分ではあるけれど、自分の強みをプロフィールにする、ということが本当に難しかった。
敷かれたレールの上を走るだけだったから。自分の魅力なんて、考えたこともなかったから。
でも、自分を好きになろうと、認めてあげようと決めていたから、少しずつ向き合った。
そこから、多分こんな自分だから、いろんな悩みを持ったお客様と出会うことがあった。
こんな自分だから、真正面から向き合うことができたと思う。嫌だなんて思うことなんてなかった。そうしてお客様に、出会えてよかったと喜んでもらえることが増えた。
その度に、なんだか自分を認めてあげられるような、そんな気がした。自分の方が、救われているかのようだった。
女風をやっていて1番嬉しいことは、この瞬間だった。
自己肯定感なんて言葉を理解できないくらいの自分だったから、心から認めてもらえている、その事実が救いだった。
年齢やさまざまな理由で、自分なんかがいいのかなって、そう思うお客様はたくさんいます。そう言われることがたくさんあります。
でも、自己肯定感なんてものはなかった私だからこそ、そんな風に思う気持ちがわかります。
だからこそ逆に、私には、私にだけはそんな風に言わないでほしい。自分を認めてあげてほしい、きっと魅力のない人なんていないから。あなたを認められる手伝いをさせてほしい。それが私の救いにもなるから。
長くなって、何を書きたかったのか、よくわからなくなってしまいましたが、こんな人生を過ごし、今に至ります。
ひょんなことから長崎に来ましたが、今本業として、大変だけれども、心から楽しいと思える別の仕事をしています。
ですが、それがなんだかんだ暇で…笑
また女風を始めたというわけです。
まあとにかく、自分なんかが、と思ってしまう方は、ぜひ私のところに来てください。
消えたいという気持ちが消えない人、居場所がないって、そう感じる人も、ぜひ。
その気持ちは、すごくわかるから。
何かが変わるかもしれないし、なにも変わらないかもしれない。
それでも、いっしょにあなたを肯定させてください。
まあそんな、私の人生紹介でした。
この日記を読んだ後、私の他の日記を見ていただくと、もしかするといろんな発見があるのかもしれません。
気になった方はぜひ見てみてください。
なにか共感する部分があった、話してみたいと思った方はぜひ、DMお待ちしております。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。少しでもあなたの心の中に残るものがあれば嬉しいです。
とても長い文章となりますが、ぜひお付き合いいただければ幸いです。
※家庭環境など、少し重めの内容を含みます。そういった話が苦手な方は、無理せずブラウザバックしていただければと思います。
=================
わたしの家族構成は、父、母、兄、そして大好きなワンちゃんがいました。ワンちゃんは数年前に亡くなりました。
今では、親と、家族とは、絶縁している。
何年も連絡をとっていない。私が今長崎にいるなんて、知りもしないだろう。
元々家庭内の仲は良くなかった。小さい頃はまだなんとかなっていた。でも、大きくなるにつれ、その溝はどんどんと大きくなっていった。
DVなど、手を出されたことはない。そこは、幸せだったと思う。
父親と、まともに話をしたことがない。父は祖父の借金を背負わされ、なんとか働き詰めでいた。そんな中で育ててくれた恩はある。
でも、父親の性格とか、どんな人なのかはほぼ知らない。帰ってきては酒を飲み、そのまま酔い潰れて寝ていたから。みんなの邪魔をしないように、さっさと寝ようとしてくれていたことは知っている。
わたしの性格や、成長するにつれどう変わっていったのか、ほとんど知らないだろう。
母親のことは、小さい頃は素敵な母親だと思っていた。自分に寄り添ってくれていると感じていた。こうしなさい、ああしなさいと、教育をしっかりしてくれていたと思っていた。
でも大きくなるにつれ、こうでなければならない、こうじゃないなんてあり得ない。私が母親の思う道を逸れるたび、そんなことばかり言われていたと思う。
昔いじめられていたとき、抱きしめて励ましてくれました。でも、私の気持ちを気遣うような言葉は不思議となかった。きっと子供ながらになにか違和感があったから、今でも覚えてるのだろう。
母親の言う高校ではなく、もう少し偏差値の低い高校に決めた時、あんなバカなところに行ってどうするんだ。あんなところに行ってなんになると言われた。
見たことないような形相で、否定された。
その時、この人は私ではなく、息子という形を見ているのだと思った。
家の中で1番に覚えているのは、兄の大学受験の時だった。リビングで勉強する兄、付きっきりで教える父、見守る母親。
私がリビングにいるだけで、勉強の邪魔になると言われていた。その時は受け入れていた。自室に逃げるようにこもっていた。家の中の、音がなくなったような感覚だった。
あの時、自分はなぜ存在しているのか疑問だった。存在しているだけで邪魔なのかと。空虚な時間だけが流れていた。
そこから自分の殻にこもるようになり、あまり人と話せなくなっていた。作り笑いや取り繕うのはうまかったから、話しているふりはできていた。でも、自分の心の内を話すことなんて、できなかった。
そんな中でも、勉強しろと口酸っぱく言われた。やる気なんて、起きるような状況ではなかった。まあ、言い訳ではあるか。
元々頭はいい方だった。勉強しなくとも、そこそこの点数は取れていた。
母親から、国立大学に行けと、ずっと言われていた。そこに自分の意思はなく、決められたことのように。
安定して暮らせるようにしてあげたいと、そういう思いから言っていたことは理解していた。でも、そこに本人の意志が入っていないのだから、意味がないと当時から思っていた。
結局まともに机に向かったことなんてないけれど、国立の大学に受かった。家を出たくて県外の大学を選んだ。ずる賢さだけは育っていたから、学費が安くて、偏差値もそれほど高くない、なんとか行けそうな大学を見つけていた。
とにかく家から出たかった。大学で一人暮らしを始めた。
ここまでいいことを書いていないが、大切な温かな思い出がある。小4で飼い始めた、黒のトイプードルのワンちゃんのことだ。
とても優しい、賢い子だった。まともに繋がりのない家族が、唯一繋がるのが、このワンちゃんのことだけだった。
帰ればいつも、尻尾をぶんぶんと振り迎えてくれた。賢くて、朝時間になれば起こしに来て、寝ている私の顔をベロベロ舐めてくれた。
家族で喧嘩した時、必死に止めようと、不安そうな顔で、それでもそれぞれに駆け寄ってきてくれた。
私が泣いているとき、一緒に泣いているかのように、そばにいて慰めてくれた。心からの愛を感じたのは、ワンちゃんだけだった。
家庭が崩壊していなかったのは、このワンちゃんがいてくれたからこそだった。いなかったら、崩壊していただろうと、ずっと思っていた。
大学に行くため、家を出る時、このワンちゃんと離れることだけは、本当に寂しかった。
兄の話はまったくしていないけど、まあそういうことだ。一緒に遊んでいたこともあったけれど、理不尽に怒ったり、家の主のように振る舞ったりする兄のことが、どうしても好きになれなかった。
大学時代、言われるがまま、長期休みのたびに帰省してはいた。そうするものだと、母親が引いたレールに乗ったままのような、そんな感覚だった。
一応迎えてくれていた気はした。でも、今思えば他人のような、そんな距離感だった。
ワンちゃんだけは、心から迎えてくれた。本当に嬉しかった。
そのまま時は流れて、大学を卒業するころ、進路を決めることになった。
地元に帰って就職するのか、大学の近くに就職するのか、都会に出てみるのか。
その時には、大好きなワンちゃんは、もうおじいちゃんだった。
家には帰りたくはない、近づきたくもない。でも、ワンちゃんの最後の瞬間にはそばにいたかった。
だから、地元に帰る選択をした。
老人ホームに入り、空き家になっていた祖母の家があったので、そこに住まわせてもらっていた。
地元に帰ったにも関わらず、大学時代よりも実家に帰ることはなく、そのまま働いていた。
特に夢もやりたいこともなかった。ただなんとなく、田舎の企業で過ごしていた。
ワンちゃんは元々病気で、長くはもたないといわれていた。
1度退職し、別の企業で働いていたとき、ワンちゃんの体調がかなり悪くなっていると母親から連絡があった。
次の休みに、会いに行くことにした。
帰った時、ゆっくりではあるが、いつものように玄関まで迎えに来てくれた。
どうやらその頃既に寝たきりだったらしく、歩いて玄関まで行ったことに、母親は驚いていた。
いつものような笑顔でそばにいてくれた。おやつもあげた。美味しそうに食べていた。
後から聞いた話だが、その頃まともにご飯も食べられていなかったらしい。
その3日後、ワンちゃんは家で亡くなった。
そのまま葬儀を行なった。涙が出るのと、何も考えられなくなることを繰り返した。
あとから、最後に元気な姿を見れてよかったと思った。そしてそれは、ワンちゃんが必死で、かっこつけて、強がって、自分に元気な姿を見せてくれていたのだと思った。
尊敬しかなかった。本当にかっこいい。忘れることなんてできやしない。
葬式で久しぶりに家族が集まった。悲しみでまともに話すことなんて出来なかった。
悲しみがなくとも、別に話しなんかしなかったけれど。たぶん。
そこから疎遠は続き、とあるきっかけで、母親と死ぬほど喧嘩した。馬鹿みたいに怒鳴りあった。
そこで初めて、今までの人生を振り返り、自分が感じてきたことを、見たことないくらいの長文で送った。
送った後、後悔しながら、なんと言われるのだろうと思った。自分の心の中の、積もったものを初めて開示したのだから。
謝ってもらえるのか、寄り添ってくれるのかな。そんな風に期待した自分が、馬鹿だった、自分勝手だったなと後悔することになった。
謝罪や寄り添いの言葉なんて、一つもなかった。むしろこっちがと、たくさんの怒りの言葉が添えられていた。
もう、止まれなかった。
ワンちゃんがいなかったら、家庭は崩壊する。そう思っていたことが現実になった。
この人たちと関わることはできないと思った。だから、縁を切ると連絡し、最後に挨拶にいった。
父親からは大学に行かせた費用を返せと、そう言われていた。
母親からは、恨みつらみの続きだった。この人は最後までこれなんだなって。もはやなんの感情もなかった。
その言葉を聞いて、父親が初めて仲裁しようとしてくれてはいた。まあ、今更ではあったが。少しだけ印象に残っている。
自分の部屋から必要なものをまとめて、出ていくことにした。
父親には、自分の口座にあった貯金を全額渡して、飛び出すように出て行った。
歩いて駅に向かう中、母親が車で追いかけてきた。最後だから、送らせてくれと。
何度も断ったが、いつまでも付いてくるので、諦めて送ってもらうことにした。
そこから、よくわからない感情だった。気づいたら、親不孝者でごめんなさいと、生まれてきてすいませんでしたと、謝っていた。
母親からは、そんなことはない。後悔なんてないよと。そして、嫌なことがあったなら言ってくれたならよかったのに、言ってくれなきゃわかんないよと、泣きながら謝られた。
もう戻れないけれど、母親もきっと、とんでもなく不器用な、1人の人間だったのだと、そこで知った。
そこから、このままなにもせず生きるよりは、その瞬間、楽しいと思えることをして生きようと、そう決めた。
安定して暮らすのだと、母親からずっと言われてきたことを捨てて、いつ死んでもいいから、楽しいと思えるように生きようと。
そして、好きとか嫌いとかもなかった、無関心だった自分と向き合いはじめた。
そこで、人生で1番長く付き合うのは、家族でも他の人でもなく、自分自身なのだと気づいた。そんな自分に無関心で、むしろ嫌いよりだったことが、もったいないなって、そう思った。そこから少しずつ、自分を認めてあげようと思った。
絶対に人生で1番関わることになる自分を、好きになろうと思った。殻にこもっていた自分を、少しずつ出せるようにしようと、そう思った。
そこから貯金を全部置いてきたのに、無謀にも都内に転職し引っ越した。細かくは言えませんが、楽しいと思える仕事を始めた。
でも、貯金も無しに引っ越してきたので、借金をして無理やり生活していた。
お金もなく、やりたいことをやるために、何か別の仕事を始めようと探し始めた。
最初はホストをしようと、体験入店に行った。すぐにヘルプについた。何組かついた後、口だけはうまかったから、店長からやっていけるよと言われ入店した。
初めての出勤日、裏方の手伝いをしていると、同僚のホストたちが集まってきた。そこで、信じられないぐらい汚い言葉で、自分にお金を使ってくれているはずの女の子たちのことを話していた。人間の言葉とは思えなかった。
吐き気が止まらなかった。その日で、ホストを続けることは無理だと悟った。
その後、調べていく中で女風の存在を知った。
女風であれば、お客さんと向き合うのは自分1人。あの汚い言葉を聞く必要はない。
自分が精一杯誠実に対応すればいいのだと。
だから、それなら働けると思い、女風を始めることにしました。
実はこんな経緯で、女風を始めました。
お金がなくて、ホストでは無理で、自分1人で向き合える仕事として、適していると思ったから。そして心の中のどこかで、人と関わりたいと、そう思っていたからこそ、選んだのだと思う。
女風を始めて、最初は驚くほどお客さんがつかなかった。大多数のセラピストも、多分同じような感じだと思う。
今でも苦労している部分ではあるけれど、自分の強みをプロフィールにする、ということが本当に難しかった。
敷かれたレールの上を走るだけだったから。自分の魅力なんて、考えたこともなかったから。
でも、自分を好きになろうと、認めてあげようと決めていたから、少しずつ向き合った。
そこから、多分こんな自分だから、いろんな悩みを持ったお客様と出会うことがあった。
こんな自分だから、真正面から向き合うことができたと思う。嫌だなんて思うことなんてなかった。そうしてお客様に、出会えてよかったと喜んでもらえることが増えた。
その度に、なんだか自分を認めてあげられるような、そんな気がした。自分の方が、救われているかのようだった。
女風をやっていて1番嬉しいことは、この瞬間だった。
自己肯定感なんて言葉を理解できないくらいの自分だったから、心から認めてもらえている、その事実が救いだった。
年齢やさまざまな理由で、自分なんかがいいのかなって、そう思うお客様はたくさんいます。そう言われることがたくさんあります。
でも、自己肯定感なんてものはなかった私だからこそ、そんな風に思う気持ちがわかります。
だからこそ逆に、私には、私にだけはそんな風に言わないでほしい。自分を認めてあげてほしい、きっと魅力のない人なんていないから。あなたを認められる手伝いをさせてほしい。それが私の救いにもなるから。
長くなって、何を書きたかったのか、よくわからなくなってしまいましたが、こんな人生を過ごし、今に至ります。
ひょんなことから長崎に来ましたが、今本業として、大変だけれども、心から楽しいと思える別の仕事をしています。
ですが、それがなんだかんだ暇で…笑
また女風を始めたというわけです。
まあとにかく、自分なんかが、と思ってしまう方は、ぜひ私のところに来てください。
消えたいという気持ちが消えない人、居場所がないって、そう感じる人も、ぜひ。
その気持ちは、すごくわかるから。
何かが変わるかもしれないし、なにも変わらないかもしれない。
それでも、いっしょにあなたを肯定させてください。
まあそんな、私の人生紹介でした。
この日記を読んだ後、私の他の日記を見ていただくと、もしかするといろんな発見があるのかもしれません。
気になった方はぜひ見てみてください。
なにか共感する部分があった、話してみたいと思った方はぜひ、DMお待ちしております。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。少しでもあなたの心の中に残るものがあれば嬉しいです。





